本  光  坊  了  顕  案  内
文明六年(1474)三月二十八日夕方、吉崎御坊では南大門番所本覚坊納屋から出火した。春の強風にあおられて、寺内四十八棟の多屋のうち九棟の多屋が次々と焼け落ち、水利が悪かったこともあって西正門、北大門、さらに本堂をも焼失した。失火とされている。
 この火事の中で蓮如は大変なことに気づいた。宗祖親鸞上人の真筆の『教行信証』のうち、「信の巻」を持ち出すのを忘れたのだ。
 「このまま捨ておけば、来世の同行は勧化の杖を失ってしまう。」と肩を落とした蓮如の前に、本光坊了顕(りょうけん)が進み出た。そして、事情を聞くと「南無阿弥陀仏」の念仏もろとも火中に飛び込んで行った。
 必死の思いで師の居間に着いた了顕は、その机に置かれていた「信の巻」を見つけた。が、火勢が激しくて我が身も危うく、無事に持ち出せそうもない。
 了顕はとっさに机の上にあった懐刀を引き抜くと、わが腹を十文字に切り裂き、その中に教巻を収めた。
 その後、崩れ落ちた焼け跡を探すと、黒焦げになった了顕が見つかった。蓮如は泣きながら了顕の額をなでると、了顕の両目が開き、何か言いたそうに腹の傷を見た。
 無残なその傷口の中に、教巻が収められているのを知った蓮如が取り出してみると、一点の傷もなかったという。蓮如が涙の中で感謝の意を伝え、「心静かに往生するのだよ」と語りかけると、了顕は念仏を唱えながら往生したとされている。
 この「信の巻」はその後『腹籠もり(はらごもり)の聖教』と呼ばれて、今は京都の西本願寺に保存されている。伝説では了顕はまだ二十九歳の若さだったという。この話は蓮如の御文や他の文書には出てこないが、『蓮如上人絵伝』には描かれている。

中日新聞社発行の「蘇る蓮如」の一部を掲載しました。